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冷蔵業の先駆者「中原孝太」物語

 「氷温」は鳥取県で生まれましたが、この鳥取県といえば、我が国冷蔵業の先進地であり、特にこの米子市は冷温・冷蔵という貯蔵技術の発祥の地といっても過言ではありません。冷蔵業の先駆者である中原孝太氏について紹介しますので、彼が心血を注いだ冷蔵事業にかける熱き思いを感じてみて下さい。
 孝太氏は鳥取県東伯郡橋津村(現・湯梨浜町)の出身で、明治3年6月1日午前2時に生まれましたが、午の年、午の日、午の時刻であったので、村老らは中原家には強情者が生まれたと言いましたが、実際、孝太氏は強情っ張りであったようです。少年期に入ると孝太氏は父に強要して15歳で単身上京、英語を学んだ後、アメリカに遊学し、国富の絶大さと物資文明の進歩に驚嘆しました。明治25年、コロンビア大学法科を卒業して帰国した後、しばらく東京で会社勤めをしていましたが、アメリカで抱いた事業を実現するには田舎の方が適していると考え、明治28年に橋津に帰ってきます。
 明治31年、立ち上げる事業とその適地を試行錯誤した結果、米子の城山の麓、中海(なかうみ)に臨んだ風光明媚の地に日本冷蔵商会を設立しました。孝太氏の手記には「水産は我が国最大事業の一たりとは在米時よりの考えなりし、第一着にこれが需給協調を計るべく水産物製造に着眼し、米国向け塩鯖の試製を隠岐国及び出雲美保関等に行いたるも、原料関係に頓挫して放棄す。次に当時本邦最初のしかも朝野専門技師中その不要論盛んなりし機械的冷蔵事業たる日本冷蔵商会を創設し、地を米子に相し、米国フック会社の5トン製氷機を購入し、明治31年2月起工、翌年5月開業」と記されています。ちなみに「冷蔵」の語は「Cold Storage」の直訳で孝太氏の訳語です。
 氷といえば、福万村(現・米子市)の高田家が切り出す大山の天然氷しか知らなかった米子町民は、機械で氷を製造するというので前評判が高く、開業式には県知事をはじめ各界の名士が参列しました。当時の新聞でも「頭上高く屋根裏の鉄管より氷の螺旋状をなし落ち来る有様など、三伏酷熱のままお肢体を戦慄せしむ」と報じています。しかし、山陰の田舎での氷や冷凍魚の需要は極めて少なく、評判とは裏腹に経営は困難でした。こうした事態打破のため凍豆腐の機械的製造を試みて天然製よりはるかに良質で均一の凍豆腐が製造でき、大阪内国博覧会で2等賞を得たほどの出来映えでしたが、安価な天然の製品に太刀打ちできず、結局失敗に終わりました。
 孝太氏は米子が製氷・冷蔵業の地の利を得ていないことを痛感、明治38年工場を神戸に移し、日本海冷蔵株式会社を設立しました。株式会社は株主をはじめ他の役員との協調の上に成り立ちますが、孝太氏の性格に合わず、明治40年、孝太氏は心血を注いだ冷蔵事業から一切手を引き東京に去りました。東京では幾つかの事業を起こしましたが成功せず、昭和18年没、73歳でした。
 ともあれ、孝太氏の先見性は当時の常識から一頭地を抜いたものであり、彼の冷蔵技術はその後、水産業のみならず、食品保存全般に及びました。さらに孝太氏が冷蔵技術の開発に熱き思いを抱いたこの米子にて、没後約30年経過したのち、新たに氷温技術が誕生することになり、低温技術で生鮮食品の素晴らしさを伝えようという孝太氏の志はしっかりと継承されているように思われます。
引用・参考文献
 1)シュガーレディ新商品開発室偏(1990)「冷凍食品の本」、三水社、東京.
 2)野口敏(1997)「冷凍食品を知る」、丸善、東京.
 3)鳥取県広報連絡協議会編著(2004)鳥取歴史発見/鳥取NOW第61号、鳥取.






 
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